アントニオ猪木の学歴や経歴を調査!ブラジルで12時間働きプロレスラーに!

2022年10月1日に、プロレスラー・政治家として活躍されたアントニオ猪木さんが、

難病「全身性アミロイドーシス」との闘病中にご自宅で亡くなられたことが報じられました。

アントニオ猪木さんは、プロレスラーの力道山さんにスカウトされるまで、ブラジルの青果市場で朝5時から夕方5時まで働かれていた過去があります。

今回は、アントニオ猪木さんの学歴や経歴などを調査していきましょう!

目次

アントニオ猪木のプロフィール

リングネームアントニオ猪木
本名猪木 寛至(いのき かんじ)
ニックネーム燃える闘魂
生年月日1943年2月20日
年齢79歳没
出身地神奈川県横浜市鶴見区
星座うお座
身長191cm
血液型AB型
職業政治家、スポーツ関連、実業家

アントニオ猪木さんは、神奈川県横浜市鶴見区生麦町(現在の鶴見区岸谷)で生まれます。

父親の猪木佐次郎さんが、アントニオ猪木さんが5歳の頃に、父親の猪木佐次郎さんが亡くなられたことで、貧しい幼少時代を過ごします。

12歳で横浜市立寺尾中学校に入学しますが、生活は厳しく貧しい日々を送ります。

13歳の時に貧困を抜け出せるかもしれないという希望から、母親、祖父、兄弟とともにブラジルへ渡り、サンパウロ市近郊の農場で少年時代を過ごすなど壮絶な生い立ちです。

アントニオ猪木さんの学歴や経歴を下記にまとめていきます。

アントニオ猪木の学歴

12歳で横浜市立寺尾中学校に入学しますが、生活は厳しく貧しい日々を送ります。

13歳の時に貧困を抜け出せるかもしれないという希望から、ブラジルへ渡り、サンパウロ市近郊の農場で少年時代を過ごします。

ブラジルに移住されてから中学校には通わず、それから1年半、農場で早朝5時から夕方の5時までコーヒー豆の収穫などを中心に過酷な労働を強いられます。

高校にも進学はぜず、農場で働かれます。

16歳の頃に、陸上競技選手としてブラジル陸上競技選手権ジュニア部門に出場します。円盤投げは大会新記録で優勝、砲丸投げでも優勝します。

その後、ブラジル遠征中の力道山の目に留まりプロレスラーになります。

アントニオ猪木さんは、

横浜市立寺尾中学校に入学
・ブラジルに移住し、中学校・高校には通っていない

アントニオ猪木さんは、プロレスラーの力道山さんにスカウトされたことで、現在に繋がります。

アントニオ猪木さんの経歴を下記にまとめていきます。

アントニオ猪木の経歴

アントニオ猪木のプロレスラー時代

スクロールできます
経歴
19604月11日興行でサンパウロを訪れていた力道山から直接スカウト
※サンパウロ青果市場で勤務中

→日本へ帰国し日本プロレスに入団
196211月9日リングネームをアントニオ猪木に改名
19663月豊登に「日本プロレスに帰っても一生馬場の上には行けん」と口説かれ、日本プロレスから離脱
19664月23日自身をエースとする東京プロレスの設立を豊登とともに公式発表

1966年4月23日、豊登さんと東京プロレスの設立を公式発表されますが、下記の影響で急速に業績が悪化し、3ヶ月で破産ます。

テレビ放送が付かなかったこと
・営業力が弱かったこと
・豊登さんの横領

「客が少ない」という理由で興業を中止しようとしたところ、怒った観客にリングに火をつけられる「板橋事件」なども起きます。

経歴
19667自民党副総裁川島正次郎の仲介もあり古巣である日本プロレスに戻る
1971日本プロレスの経理が不透明であったこと
日本プロレスとの度重なる確執から追放処分を受ける
197111女優の倍賞美津子と結婚
19721月26日新日本プロレスを旗揚げ
19822月27日沖縄松林流空手東海支部長水谷征夫とともにフルコンタクト空手の団体
「寛水流空手(かんすいりゅうからて)」を設立
19945月1日福岡ドームでグレート・ムタと対戦し、フォール勝ちを収める。
この試合より引退への布石となる「イノキファイナルカウントダウンシリーズ」が始まる。
19984月4日ドン・フライと対戦し、グラウンド・コブラツイストで勝利し引退

引退の際には「この道を行けばどうなるものか」で始まる「道」の詩を諳んじるスピーチを行います。

アントニオ猪木さんの台詞は、Mr.Children「one two three」に使われているようです。

アントニオ猪木の参議院議員時代

スクロールできます
経歴
1989「スポーツを通じて国際平和」を合言葉にスポーツ平和党を結成
1989第15回参議院議員通常選挙に比例区から99万3989票を集めて初当選し、参議院議員となる。
19927第16回参議院議員通常選挙でも1議席を獲得
20136月5日日本維新の会より、第23回参議院議員通常選挙比例代表での出馬を表明。
7月21日獲得票数35万6606票(同会内最多得票)で当選し18年ぶりの国政復帰を果たす。
7月25日北朝鮮の朝鮮戦争休戦60年の記念行事に出席し、平壌で金永南最高人民会議常任委員長と会談。
7月29日議員氏名として「アントニオ 猪木」を使用することが、参議院で許可
20148 日本維新の会分党に際しては石原慎太郎共同代表を支持するグループ「次世代の党」に参加。
党国民運動局長および参議院政策調査会長に就任
201412 離党届を提出
20151月8日政党「日本を元気にする会」の設立と同時に参加、同党最高顧問に就任。
20166月2日日本を元気にする会代表の松田公太の辞任と共に、猪木の代表就任
7月27日会派「日本を元気にする会・無所属会」は解散し、猪木は会派「無所属クラブ」に異動。
20192月25日国民民主党の院内会派である「国民民主党・新緑風会」に入会
6月5日第25回参議院議員通常選挙に出馬せず引退する意向を表明

アントニオ猪木さんは、1989年に第15回参議院議員通常選挙に比例区から出馬され、参議院として初当選されています。

2019年6月5日に第25回参議院議員通常選挙に出馬せず引退する意向を表明されるまで、長年間国会議員として活躍されます。

第25回参議院議員通常選挙の不出馬の理由は高齢であることなどから出馬を辞退されています。

アントニオ猪木のプロレスラー引退後

スクロールできます
経歴
20028月28日「Dynamite!」では、上空4,000メートルからのスカイダイビングに挑戦
200312月31日日本テレビ協賛で「イノキボンバイエ」を開催するが大失敗に終わる。
→格闘技プロデュースからは退く。
200511月14日新日本プロレスの株式(全株式の51.5%相当)を株式会社ユークスに売却
20064アメリカの新興総合格闘技団体IFLの世界大使に就任。
20073新団体「イノキ・ゲノム・フェデレーション(IGF)」を発足
7月11日親交のある“TRIPLE-Pとアントニオ猪木の名言「道」を曲にして発売
20102月1日WWEは猪木のWWE殿堂(WWE ホール・オブ・フェイム)顕彰を発表
※WWE殿堂入りを果たした日本人は猪木が初。
201112月31日「元気ですか!! 大晦日!! 2011」を開催
20127月10日中国・上海で新団体「上海愛武」を旗揚げ。
11月20日キューバ友好勲章を授与される
20132月20日古希を祝うパーティーが東京都港区のホテルオークラ東京で開催
660人が祝福に駆けつける
20175月25日新イベント「ISM」の旗揚げを発表
10月21日両国国技館で『INOKI ISM.2』において自身の生前葬を行う
20207月26日自身のTwitterで、難病の「心アミロイドーシス」という病におかされていることを告白
202111月27日正式な病名は「全身性トランスサイレチンアミロイドーシス」だと公表
202210月1日享年79歳で、自宅にて病死

アントニオ猪木さんが患った「全身性トランスサイレチンアミロイドーシス」が難病であることから、これからの研究分野についてもっともっと研究員が増えることを期待され、ご自身の闘病生活をYouTubeで配信されています。

病気になってからも社会のために活動されている姿は、どんなに弱ってしまったとしてもかっこよかったです。

アントニオ猪木さんのご冥福をお祈りします。

まとめ

2022年10月1日に、プロレスラー・政治家として活躍されたアントニオ猪木さんが、

難病「全身性アミロイドーシス」との闘病中にご自宅で亡くなられたことが報じられました。

アントニオ猪木さんは、プロレスラーの力道山さんにスカウトされるまで、ブラジルの青果市場で朝5時から夕方5時まで働かれていた過去があります。

今回は、アントニオ猪木さんの学歴や経歴などを調査していきました。

高校には進学せず、力道山さんにスカウトされてからプロレスラーとして活躍されます。参議院選挙にも出馬し、見事当選を果たし、長年間国会議員として活躍されます。

アントニオ猪木さんのご冥福をお祈りします。

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!

この記事を書いた人

コメント

コメントする

CAPTCHA


目次
閉じる